安重根烈士の伊藤博文処断は、愛国的壮挙
−2010年3月25日−


 朝鮮中央通信によると、朝鮮歴史学会は25日、「安重根烈士の伊藤博文処断は、日帝の植民地統治に反対した正義の愛国的壮挙」と題する論告状を発表した。その全文は次のとおり。

 安重根烈士の犠牲100年に際して

 3月26日は、朝鮮侵略の元凶、伊藤博文を処断した愛国烈士の安重根が日帝の絞刑吏によって犠牲になってから100年になる日である。

 1909年10月26日にハルビン駅頭で断行した安重根烈士の伊藤博文処断は、朝鮮を「保護」するとして、我が国に対する侵略政策を実行していた日帝に対する我が人民の断固たる懲罰であったし、朝鮮人は他国の奴隷として生きることを願わない自主精神の強い民族であり、国権回復のためには死をも恐れない気概を持った人民であることを誇示した愛国的行動であった。

 安重根烈士は単身で伊藤を処断したが、彼が敵撃滅の銃弾を放ったのは、我が民族の恨みと怒りの爆発であったし、日帝の朝鮮侵略に対する抵抗の宣言、他民族に対する侵略に明け暮れる日帝の犯罪的罪悪を全世界に告発した正義の壮挙であった。


1.安重根烈士の伊藤博文処断は、国の自主権と独立のための朝鮮民族の気概を誇示した壮挙

 安重根烈士が伊藤博文を処断したのは、日帝の植民地奴隷として生きるのではなく、奪われた国を必ず取り戻すという、我が人民の強い意志のあらわれであった。

 日ごとに傾いていく国の運命を救おうとする一念で安重根烈士は、愛国文化啓蒙運動と国債報償運動にも飛び込んだし、日帝の侵略が強まると義兵闘争にも立ち上がった。

 彼は、自身のすべての活動を個人の名誉のためではなく、国権回復という愛国者の立場から見て接した。

 こうした民族的自覚と反日の意志を持っていたので安重根烈士は、伊藤を処断した後、現場で「朝鮮万歳!」を三唱して日帝の植民地奴隷として生きないという、我が人民の信念を世界に誇示したのである。、

 安重根烈士の伊藤処断は、単なる反日感情の衝動によってではなく、我が人民の反日闘争の一形態である義兵闘争の延長線で断行されたものであったし、義兵隊参謀中将の資格で義兵隊の任務を遂行したのであった。

 彼の壮挙は、国権を取り戻そうとする我が人民の意志と信念のあらわれであって、決して個人テロではなかったし、したがって彼を日帝の法廷で裁判するのではなく当然、国際法にのっとって戦争捕虜として接するべきであった。

 そのため彼は、日帝関東都督府地方法院第1回公判の時、「私は、以前から義兵の参謀中将として(今回の壮挙を)計画した。したがって、この法院(日帝の法院)の公判廷で取り調べを受けるのは不当だ」(「安重根と日韓関係史」)と主張して、自身の壮挙が伊藤に対する個人的な復讐の感情に起因するテロではなく、朝鮮に対する日帝の植民地統治に抗議して戦争を宣布した戦闘行動であったことを明らかにしたのである。

 安重根烈士はまた、国権回復のための自身の心情について面会に訪れた弟たちに「私は天国に行ってからも当然、我が国の回復のために努める。…また朝鮮独立の万歳の声が天国に聞こえてくれば、私は当然踊りを踊り、万歳を叫ぶであろう」と述べ、死んでも必ず遂げるべき国の独立を熱烈に願った。(「安重根伝記全集」)

処刑2週間前に面会にきた2人の弟、定根・恭根と安重根

 安重根烈士の伊藤処断は、東洋の平和を願い、他民族に対する帝国主義侵略に反対した我が人民の正当なたたかいの一環でもあった。

 日帝の朝鮮侵略が東洋平和にも深刻な危機をもたらすと考えた安重根烈士は、それを防ぐ道はただ、日帝の侵略政策とその実行を阻むところにあると認識していた。

 彼は1907年、ウラジオストクで義兵を挙げるための会合を開いた席で同僚たちに、「我が民族が、もしこの盗っ人(伊藤博文)を殺さなければ朝鮮は必ずなくなり、東洋もやはり滅びるであろう」として東洋の平和は日帝の海外侵略を阻むところにあると主張した。

 彼は、日帝の海外侵略政策を先頭に立って実行している伊藤の処断を一個人に対する懲罰としてではなく、日帝によって生じる国際社会の大きな危機を解消するための問題とみなしてすべてを犠牲にしてでも東洋平和の道を模索しようとした。

 彼は、獄中で執筆した「東洋平和論」で日帝の侵略政策の不当性と危険性を指摘、糾弾し、このような自身の見解を表明した。(「東洋平和論」序文)

 安重根烈士は、常に朝鮮の独立と東洋の平和を守って一身をささげることを当然の本分として自覚していた。

 彼は死刑を控えた時刻にも「私が朝鮮独立のために死に、東洋平和のために死ぬのだから何の恨みがあるだろう」と言って自身のたたかいの正当性を確信していた。(「東洋平和論」)

 特に彼は、東洋の平和を朝鮮の独立問題と結び付けたし、朝鮮に対する日帝の植民地統治を放置してはこの問題を論じることができないと考え、朝鮮が独立してこそ東洋の平和を守れると主張した。

 これは、安重根烈士が朝鮮の独立を優先視し、東洋平和の先決条件として提起していたことを示している。

 彼はさらに、日帝の海外侵略が東洋平和を危険に陥れ、その前途を暗くする根源であると主張した。

 安重根烈士の伊藤処断は、国の自主権と独立のための正義の愛国的行動、日帝の大陸侵略策動がいっそう強まっていた時期に植民地統治を強いられた朝鮮民族の一員が断行した壮挙であったため世界に大きな衝撃を与えた。

 10月26日、ハルビンで伊藤が処断されたとの知らせが伝わると、国内外の反響は大変なものであった。

 世界は、安重根烈士の愛国的行動が朝鮮に対する日本の「保護統治」とはほかならぬ植民地統治であることを明らかにし、これが日帝の植民地統治に対する朝鮮人民の正義の答えであることを宣布した義挙であると認識した。

 日帝の侵略政策に同調していたヨーロッパの帝国主義列強は、「日本の大政治家」の突然の「惨事」に恐怖に近い驚きをあらわしたし、日帝の侵略政策に抵抗する朝鮮人民の不屈の気概に震え上がった。

 日帝は、この壮挙を「明治維新」以来初めての不祥事であるとし、「『明治維新』の大政治家」が死亡した事実の前に慌てふためいた。

 この壮挙は、世界に帝国主義者の偽善と欺瞞策動を明らかにし、侵略者に大きな恐怖を与えた出来事であったし、帝国主義者の侵略が世界の進歩的人民の強い抵抗にあうであろうことを警告した契機となった。

 安重根烈士の伊藤処断は、世界の進歩的人民の賛嘆を呼び起こした。

 世界の進歩的人民は、安重根の伊藤処断を世界の平和を守った功績として高く評価し、特に日帝の侵略の脅威に直接さらされていた中国人の反響は嵐のようであった。

 中国人たちは、「…安君が伊藤を射殺したのは真に祖国のために復讐しただけでなく、世界平和の共同の敵を切り捨てたことであり、安重根はただ朝鮮の功臣だけではなく東洋の功臣、世界の功臣でもあったことがわかった」と称賛したし、「安君が伊藤を殺したことは国家のために恥をぬぐい、復讐をしたことだけではなく実際に世界のために共同の敵をなくしたことである」と述べた。(「安重根と日韓関係史」)

 中国のブルジョア改革活動家である梁啓超も「秋風につる切れる」の詩を作って、「立派だ、その姿永遠に輝くであろう…ハルビンの銃声は世界を震撼させる」と興奮した心情を吐露した。(「安重根と日韓関係史」)

 ヨーロッパでも、伊藤が処断されたのは当然の報いであるとし、安重根烈士を愛国者、復讐者、献身者と、彼の壮挙を英雄的であると評価した。(「安重根と日韓関係史」)

 外国人の弁護士たちも監禁された安重根烈士を弁護するために活動し、果ては日帝の検察官までも彼の弁論に感動をあらわした。

 このように安重根烈士の壮挙は、国際的範囲でも帝国主義者に大きな恐怖を与え、進歩的人民のあいだでは熱烈な支持と同情を呼び起こした。

 安重根烈士が侵略の元凶を処断したのは、国の自主権と独立のための愛国的行動であったし、世界の平和を願う進歩的人類の念願にも一致し、国内外の人民の惜しみない支援を受けた壮挙であった。


 2.安重根烈士の伊藤博文処断は朝鮮に対する日帝の植民地化策動を全世界に告発した壮挙

 安重根烈士の伊藤処断は、日帝の侵略犯罪を明るみにし、植民地統治の犯罪性を世界に明かした壮挙であった。

 彼は、伊藤処断の理由について、正当な論拠を持って15カ条からなる伊藤博文の罪悪を断罪した。

 安重根烈士は、日帝が1895年「乙未事変」を起こし、1905年に「乙巳五条約」、1907年に「丁未七条約」を捏造して、我が国の自主権を乱暴に踏みにじった特大型の罪悪と鉄道、鉱山、山林、金融などを掌握し、経済を隷属させた強盗行為、社会の各分野で植民地的隷属化を強行し、自分らの侵略政策を覆い隠し、世界の世論を欺いた事実を明らかにしたし、それが、すなわち日帝の侵略政策を現地で執行した伊藤を処断した根本原因であることを明らかにした。(「安重根と日韓関係史」)

 彼の論拠は、当時伊藤個人の罪悪だけでなく、我が国の自主権と独立を踏みにじった日帝の犯罪行為に対する歴史的告発状であったし、我が民族が反日感情を持つようになった理由、反日闘争の正当性に対する論拠であった。

 安重根烈士が叫んだように、日帝は我が民族に大きな不幸と苦痛を強いた奸悪な侵略者、恥知らずな略奪者、前代未聞の殺人者、鉄面皮な欺瞞者、東洋平和の攪乱者であった。

 日帝は、我が民族の自主権と尊厳を乱暴に踏みにじった奸悪な侵略者であった。

 1894年に清日戦争を挑発し、朝鮮に対する勢力圏争奪戦を繰り広げていた日帝は1895年、他国の王宮に侵入して王妃を斬殺する前代未聞の自主権蹂躙行為(「乙未事変」)を働いた。

 また、1904年にはロ日戦争を挑発し、「天皇」の「宣戦詔勅」なるもので、それは「東洋の平和を維持し、また朝鮮を強固に」するところにあると唱えたし、ロ日戦争後には「乙巳五条約」と「丁未七条約」を捏造した。

 「乙巳五条約」は、日帝が我が国の国権を強奪するために伊藤を押し立てて強盗の方法で捏造した「条約」であった。

 日帝は、既に清日戦争の時、「保護国」の形式で朝鮮を植民地化するための侵略案を構想していた。

 日帝が騒ぎ立てた「保護統治」とは、列強の侵略から朝鮮を「保護」するためのものではなく、自分らの侵略目的を覆い隠すための術策であったし、植民地統治の一形態以外の何物でもなかった。

 ロ日戦争を契機に日帝は、我が国を「保護国」にするための諸条件を整えていった。

 日帝がねらった「保護」条約とは国権強奪を意味し、その実現とは結局、侵略武力による朝鮮の軍事的占領であった。

 日帝は、最も悪辣な軍事的威嚇と破廉恥な恐喝で「乙巳五条約」を捏造した。

 1905年11月の「乙巳五条約」捏造当時、約2万人の侵略武力と数多くの憲兵、警察を動員してソウルを完全に制圧した環境で伊藤博文は、高宗皇帝と数人の大臣を脅して条約締結を強要した。

 伊藤一味は11月17日、御前会議で「条約」締結に反対することを決定し帰る政府大臣たちを休憩室に抑留して賛同を強要したし、反対者がいたにもかかわらず、「条約」締結を捏造する横暴を働いた。

 こうした強盗の方法で作り上げられた「条約」は国際法上、完全に無効であるにもかかわらず、日帝は朝鮮の外交権を強奪したばかりか、事実上の植民地統治を実施した。

 それ以来、日帝は朝鮮に「統監府」を設けて「統監」統治を実施し、朝鮮を完全に植民地化するための形式上の「法的手続き」と条件を備えるために策動した。

 1907年、朝鮮の内政に対する「統監」の直接的な指揮、監督、統制など基本権限を法文化した「丁未七条約」が作り上げられ、日帝は我が国の内政権を正式に完全に強奪した。

 「丁未七条約」の捏造は、日帝の朝鮮に対する植民地統治の侵略的本質をことごとくあらわにしたし、我が人民の反日感情をさらに激化させた。

 伊藤は、「統監統治」を実施して前代未聞の略奪と民族文化抹殺、我が人民に対する殺りくを働いた特大型の犯罪者であった。

 安重根烈士によって伊藤が処断されると、日帝は自分らの恐怖心理を隠し、伊藤の侵略の行跡をできる限り美化、粉飾した。

 日帝は、伊藤の死を国内外の衆人が「哀惜」しているとし、朝鮮に対する日帝の「統監」統治と伊藤の罪を庇護した。

 伊藤の罪は、「統監」統治でさらにあらわになった。

 日帝は「統監」の「施政改善案」で、国家財政と宮中財産の整理、教育制度の改正と衛生の改善および農業、工業、鉱業・交通運輸など各分野での「開発」を標榜して我が国の自主権を踏みにじり、土地と農産物に対する大量収奪体系を確立したし、財政金融に対する支配、略奪的な「貨幣整理」、鉱業、林業、水産業、運輸および逓信、貿易に対する独占的な支配を強化するなど、植民地的隷属化を強行した。

 これとともに、植民地的奴隷教育と民族文化抹殺政策などをはばかりなくおこなった。「統監」の伊藤は、朝鮮人民に対する大量虐殺を現地で指揮した極悪な殺人鬼であった。

 当時、我が人民は、侵略者に反対する義兵闘争に果敢に立ち上がって日帝との全面戦争を宣布した。

 伊藤は、「部隊長として暴徒討伐(義兵討伐)に従事している」陸軍将校らに朝鮮義兵を交戦団体と認めず地方騒乱として扱い、容赦なく鎮圧せよと命令した。

 義兵弾圧を口実にしておこなわれた日帝の大量虐殺蛮行について、「ロンドン・デーリー・メール」の特派員としてソウルに滞在していたマッケンジーは1907年の初秋、利川(京畿道)、堤川(忠清北道)、原州(江原道)で日本軍によって焼き払われ、廃墟と化した村と義兵の根拠地まで見て回り、「私が各地で聞いた話は、戦闘で日本軍が負傷者や投降者すべてを組織的に殺りくしたということを示している。…この事実は日本側の多くの戦闘報告によっても確認できる。…日本軍は至る場所を全焼するとともに、反乱軍を助けたと疑われる者を多数射殺している」と記録した。(「朝鮮の悲劇」)

 日帝は、義兵を「暴徒」「政府転覆者」と認め、野蛮に虐殺した。

 安重根烈士は、日帝のこのような殺人蛮行について公判廷で、「数十万の義兵が朝鮮8道の至る所で蜂起した。…おそらく今日まで虐殺された朝鮮人は10万人以上にのぼるものと思う。10万人余りの朝鮮人が国のために戦っていて死んだので、事実は伊藤によって虐殺されたのである」と述べ、「…頭に鎖をかぶせて殺し、社会を脅かすために良民たちにその光景を見せるなど、暴虐非道な行為を公然と恣行」したと指摘、糾弾した。(「安重根と日韓関係史」)

 彼はまた、我が人民が「久しい前から伊藤を憎み、やつを必ず殺すという敵がい心を抱いてきた」と証言し、「…私はこいつ(伊藤博文)を殺してこんにち、朝鮮が瀕する悲惨な境遇を救わなければならない。さもなくば、朝鮮の独立はとても難しいと思ってついに、私の目的を実行したのである」と伊藤処断の正当性を主張した。(「安重根と日韓関係史」)

 安重根烈士が伊藤に向けて放った敵撃滅の銃弾は、このように我が国の国権を強奪し、我が人民に植民地奴隷の運命を強いた日帝に対する抵抗の銃弾であったし、死ぬことがあっても侵略者の奴隷として生きることを望まない朝鮮民族の復讐の銃弾であった。

 安重根烈士の伊藤博文処断は、朝鮮に対する日帝の植民地統治の欺瞞性と反動性を明らかにした愛国的壮挙であった。

 にもかかわらず、日帝は国と民族のために植民地統治に反対して義兵隊戦闘員の名義で断行した安重根の壮挙を犯罪視し、彼に極刑を言い渡した。これは、完全に盗人猛々しい悪が正義をののしる横暴であった。

 日帝は1910年3月26日、安重根烈士を旅順監獄で絞殺し、我が人民の反日抗議を恐れて彼の遺体を密葬し、自分らの犯行を覆い隠そうと策動した。

 その時から100年の歳月が流れたが、こんにちも我が人民は、かつて日帝が朝鮮人民に犯した永久に許しがたい罪過を絶対に忘れていないし、必ずその代償を払わせるであろう。

2010.3.25 朝鮮歴史学会論告状(全文)−朝鮮通信=東京

(注1)関東都督府地方法院=当時、旅順に設置されていた。

(注2)安重根が新年を貫いて伊藤を討ち、従容として旅順監獄の露と消えたのは、日韓併合に先立つこと5カ月、1910年3月26日であったが、日本側は彼の処刑時刻を午前10時とし、伊藤の絶命した日時とあわせる措置をとった。

 当初、裁判にあたった旅順の地方法院では、安重根の量刑を「無期徒刑」とする意見が出るほどであったが、一転、死刑の判決となったのは、そのころ既に、日韓併合は既定の事実として進行しており、これを強行することによって第2、第3の安重根の出現を防止しようというねらいから、外相小村寿太郎は韓国統監府政務局長倉知鐡吉にたいし、事件発生後1カ月余の12月2日、「政府ニオイテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルコト相当ナリト思料ス」と訓電し、「はじめに死刑ありき」という典型的政治裁判の進行を指示したことによる。

 小村がここで言う、「政府ニオイテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大」とは、すなわち日韓併合政策の強行を意味する。この結果、はじめ予定したいたイギリス、ロシア人両弁護士の採用も却下された。(日韓併合の真相」)

(注3)写真は、「映像が語る『日韓併合』史」               


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